白川好光 博物館
白川好光 博物館 No.04
■ 生き抜く力を蘇らせる力を持った人「 白川好光 博物館 」
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「人生の参考書」 白川好光:著7人の父母に育てられ、波乱万丈の人生を生きてきた白川好光さんが贈る実践と経験の「人生のヒント集」
「学歴がなくても人様のお役には立てるものだ。 机上の理論より、実践で積み上げた経験が勝る。
万の学問より耳と目と身体で覚えた一つの言葉に強さを感じる…。」 (本書より)
白川好光の新著「生かされて生きる」(2021/1/25発行)
皆様方へ新刊のお知らせ
拝啓
冬将軍大寒になりましても寒い日もあれば春のような春日和の温度差が季節を迷わしているこの頃ですが、皆様お元気でしょうか。
お陰様で私も元気にゴルフに写真、これからスキーにと元気に青春しております。放送大学も心理学も二学期を頑張って、4月からまた新たに一学期が始まりに学びと喜びを感じて頑張って日々うごめいております。
昨年夏に若者たちから晩年までの生き方参考書を綴って、2か月で書き終わり出版社の校正と共にいよいよ出版にこぎ着けました8冊目の新刊 「生かされて生きる」正に私の人生の波乱万丈から、生い立ちから生まれた題名に致しました。
今回も故郷秋田県内の全大学から高校から中学校全校に、生まれ育った北秋田市内の小中学校、図書館と250冊を秋田県内学校関係へ寄贈と決定されております。
又茨城県別荘30年の笠間市小中学校、図書館に、茨城県内高校共に180冊入れる事に、今在住の三郷市、小中学校、 図書館に埼玉県内の高校に250冊と各県の教育関係者県知事や県教育長の対談にて許可決定を頂き喜んで寄贈の運びとなりました680冊です。
各県の寄贈式に日程が決まり次第出席して県庁に足を運ぶ予定です。
著書内容は40年間青少年に関わり、72歳で夜学定時制高校卒業、 孫のような生徒達と机をならべての体験を生かして、高校生未来へ自分の足で責任持った行動を望む未来像。
青少年はじめ、子育て学び社会学の未来の計画に命の大切さ、 家族親子の晩年への幸福論を取り入れ、地平線の彼方に消えるまでの生き方命の尊さです。
私も75歳の年を迎えて先が見えてきました。今できる事を少しでも青少年指導を続ける事が「世の為人の為に」と考えて前回同様に今回の運びとなりました事をご報告申し上げます。
令和3年2月吉日 白川好光
「人生の教科書」 著:白川好光 静人舎
馬鹿でもこうして生きてきた!
白川好光の人生相談
NHKラジオ深夜便「こころの時代」4回出演
波瀾万丈の人生を乗り越え、72歳で定時制高校を卒業
努力と忍耐で道を切り拓いてきた著者が
あなただけに贈る、心あたたまる「幸福論」
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~行動にチャンスあり不動にチャンスなし~
今日、動けただけでも幸せと思え
今日、笑えただけでも幸せと思え
今日、生きただけでも幸せと思え
白川好光
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このたび私の著書の第7弾『人生の教科書』が刊行の運びとなりました。
前著『生きる力、知恵の力』刊行から2年の歳月が過ぎこの間、月刊誌に人生論を連載しておりましたが、各方面よりご好評をいただいたこともあり、この連載分に新たに書き起こした文章を加えて1冊にまとめました。
今回は、この春に 卒業した夜間高校4年間に若者たちと机を並べて学んできた私の経験も盛り込んであります。クラスメイトの若者たちは、それぞれに悩みや苦しみを抱え、私からすれば、道徳や倫理面で問題のある行動も多々見受けられましたが、それでも未来へ向かう姿勢には希望を感じさせるものがあり、私自身、多くの刺激を受けました。
本書はそんな経験を元にした現代若者論をはじめ、青少年の教育問題、親子問題から晩年の生き方まで、老若男女すべての方々の参考にしていただきたいという思いで綴り、私なりの「幸福論」としてまとめたものです。
本書によって悩める人を一人でも救うことができればそれに勝るよろこびはありません。
これからも皆様方のご指導ご鞭撻のもと、頑張っていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。 白川好光
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白川好光氏の新著「生きる力 知恵の力」 著:白川好光 くまがい書房
困難を克服し苦労を乗り越えてきた著者が贈る
365日の実践と経験から生まれた「人生の参考書」
人は皆、孤独を抱え、寂しく苦しい日々を悩みながら生きている。本書はそんなあなたを力づけてくれることでしょう。
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私は複雑な家庭環境に育ち、波乱万丈の生き方をしてきましたが、69年間の経験を生かすことは、この世に生を受けた私の使命だと思っています。「世のため人のため、そして自分のため」に生きる知恵とコツを、私は体と心のすべてで受け止めてきました。この私の経験をもってこの世に貢献したいという情熱を、皆様に役立てていただき、悩みや苦しみをいっしょに考え、幸福へと導いていきたいのです。
白川好光
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★文字が小さいものは画像をクリックすると拡大します
■埼玉新聞 2021年 3月27日(白川好光)
■北鹿新聞 2021年 3月30日(白川好光)
■読売新聞 2021年 4月22日(白川好光)
■秋田さきがけ新聞 2021年 4月23日(白川好光)
■北鹿新聞 2019年11月25日(白川好光)
■東武よみうり20191202 / ■秋田さきがけ2019
■公益財団法人 北野生涯教育振興会 第四十一回 課題「私の道草」
『 我が道草人生に悔いはなし 』
白川好光
私は「後悔」という言葉が嫌いです。そんな思いで七十三年間、生き続けてきました。
不倫の子として産まれた私は、七人の「育ての」父や母のもとで養育されました。脊椎カリエスの障害を抱えた私を育ててくれたそんな七人の父母への感謝を忘れたことはありませんが、過去を振り返ることはできるだけしないように今日まで生きてきました。
思えば私の人生の中で、今がいちばん充実している気がします。初老にして青春時代を迎えたような気持ちです。
昨年の春、埼玉県立吉川美南高等学校の夜間定時制を卒業し、今は放送大学で心理学を学んでいます。過去にできなかった勉強が今できる喜びは大きなもので、いつもワクワクしながら授業に臨んでいます。
周りからは、棺桶に片足入れたような年齢になって勉強してももう遅い、長続きはしないだろうと言われながらも、夜間高校を四年間、無遅刻無欠席で通し、皆勤賞をいただきました。人生をぐるりと遠回りしたような、長い道草だったかもしれませんが、念願の高校卒業を果たし、大満足でもありました。
中学校卒業時、高校進学は諦めて社会に出た私でしたが、五年前、六十八歳のとき、孫の高校受験への勉強姿に刺激され、長年叶えられなかった高校進学への夢の実現に挑戦したのです。入学式の会場では、若い生徒たちと一緒に入場する年老いた私に周りの目が集中して、すこしばかり恥ずかしい思いもしました。
しかし高校の教室で、五十三年ぶりに生徒たちと机を並べて勉強できたことは、私の脳の活性化だけでなく、大きな財産にもなりました。
初めは、漢字や作文を学べればよいという軽い気持ちでいましたが、授業についていくのは大変なことでした。数学の分数計算も化学の元素記号もなかなか覚えられず、一学期が終わるころには覚えられるだろうといった安易な考えも、二学期になって化学反応式の計算が始まると吹き飛びました。これではだめだと思い、息子の年代の先生から補修していただいて必死に勉強した結果、数学や化学だけでなく、国語や社会の成績も上がり、これが学校の学びだと実感しました。体育の授業では、十代の生徒たちと四年間一緒に身体を動かし、健康になりました。お陰様で卒業式では優秀賞の賞状をいただくことができ、生まれて初めて貰う賞状には大感動でした。
過去を振り返ることは嫌いですが、今の私を知っていただくために、私の前半生を少しお話しすることにします。
少年時代に住んでいたおんぼろ家は、冬の吹雪の日には家の中まで雪が入り込んできて寒かったことを忘れられません。藁ふとんを頭までかぶって寝ていました。障害があったため、中学までは身体が弱く、時には仲間たちからいじめられ、大人にまで馬鹿にされました。学校の成績も悪く、人目を避けてうつむきがちになり、孤独でひねくれた時期もありました。私の関心は自然と学校の外に向かい、朝の草刈り、ヤクルト配達、新聞配達、リヤカーでの魚行商など、学校の勉強より働くことに楽しみを見出した少年時代でした。
でも私には夢がありました。好きな大工職人になって自分の手で家を建てることです。養子として育ててくれた両親への恩返しに家を建ててやろうと決意し、中学卒業後、すぐに大工の修業に入りました。まだ体も貧弱でしたが、信念と熱意があったので、幸い修業にも耐えることができました。このときの経験で忍耐力が身体に植え付けられ、その後の人生においても私を支えてくれる土台となりました。
棟梁に怒られ、兄弟子からは厳しく叱られ、時には材木まで投げつけられることもあった厳しい修業でした。真冬の寒い時は冷たいバケツに氷が張っていましたが、その冷たい水で鈍研ぎや鏧研ぎ、鋸研ぎをしました。霜焼けで指から血がにじむのは当たり前でも、一日も早く一人前の職人になろうと一生懸命働きました。朝の七時半の電車で同級生たちがカバンを持って高校へ通学する姿を見かけると、羨ましくて羨ましくて涙が出ました。いつかは
高校だけは卒業しようと、ひそかに胸の底に刻み付けたものでしたが、家の貧しさを知っていたので、諦めざるを得ませんでした。
今考えると、あのとき高校に進学しなかったからこそ、この年で高校、大学で学ぶという遠回りの道草の楽しさを知ることができたように思います。
秋田での五年間の修業を終えて、兄弟子を頼りに東京へ上京したのは二十歳の冬でした。夜行列車・津軽二号に揺られて早朝の上野駅へ降り立ったときは、大都会に出てきたという緊張で身が震えたことを覚えています。貧乏生活を抜け出しこの都会で一旗揚げてやるんだと、未来への闘志が燃えたものでした。
しかしそれは簡単なことではありませんでした。アパートの親方の部屋に住み込み生活をすることになり、部屋の入り口の一帖の土間に布団を敷いて寝起きする日々が始まりました。朝、弁当を持って六時にアパートを出て現場まで自転車で一時間かけて通い、毎日夜の九時まで残業の生活が続きました。帰りは空腹のあまり、ポケットに入れたブドウパンをかじりながら自転車のペダルをこいだものです。なんでこんなに苦労するのかと涙が出ま
した。
住み込みで働いて三万八千円の給料のうち、三万円を定期預金に積んで残り八千円で生活しました。なんの楽しみもなく、ただただ働くことだけでした。いちばん寂しかったのは友達が一人もいないことで、いやというほど孤独感を味わいました。
そんな生活を我慢して何年か続けたあと、育ててくれた秋田の両親に家を建ててやろうと、久しぶりに故郷に帰ったときのことです。二十三歳でした。いつも消極的で引っ込み思案だった私のところに、集落の若者たちが来てくれたのです。祭りの夜だったと思いますが、私は長い孤独の世界から抜け出したように感じ、うれしさの余り心も躍り、とめどなく話をしました。私の繰り出す東京での苦労話と失敗談にみんなは大いに笑ってくれました。その瞬間、私は人と関わることの楽しさを悟ったのです。豚もおだてりゃ木に昇る勢いで話し込む私に、「お前は変わったね」と言われ、自分自身、驚いたものです。百八十度の性格大転換でした。性格は変えられることも、このとき知りました。人と関わることの楽しさと喜びを知り、性格に積極性が生まれた田舎での出来事でした。
家の新築は、運勢の悪い中でも一生懸命育ててくれた両親への感謝の気持ちからでした。両親といっても育ての父は戸籍上の長男でした。そして育ての第二の母は長男の妹でした。離婚して出戻ってから育ての母になってくれたのです。私はその二人のもとに養子として貰われ、戸籍上の八男でした。ですから長男とその妹が養子として来た八男の私を育ててくれたわけで、その恩返しが新築の家のプレゼントでした。
上棟式の当日、酒に酔う父の姿を初めて見ました。貰われてきた子供が建ててくれた家に集落の人々が集まってくれたことは、どんなにうれしかったことでしょう。喜びの酒だったことでしょう。父が酒に酔う姿を見たのは、このときが最初で最後でした。
本来であれば、養子とはいえ一人っ子だった私は地元に残るのがふつうだったかもしれません。しかし私は六万円を持って再び上京しました。ところが私の戻った仕事場には、私の座る席は残されていませんでした。仲間たちの「独立しろよ」という言葉に励まされながら、私は独立を決意しました。
私の独立起業は、四畳半一間から始まりました。部屋には小さな流し台があるだけ、トイレは廊下の奥に共同トイレで、風呂は銭湯でした。朝六時に起きて弁当を作り、昼間、仕事の合間に夕食用の買い物を済ませ、夜遅くまで一生懸命働きました。無我夢中でした。週末に来て掃除や食事を用意してくれていた女性が今の妻です。
その後仕事も順調で最初の弟子もとり、会社も次第に大きくなっていきました。ところが建築を請け負っていた親会社が倒産してしまいます。私が三十歳の春のことでした。建売三棟分の不渡り手形の回収額は二千四百万円。私は途方にくれました。巷では関連倒産のうわさも出ましたが、「田舎から六万円持って出てきた原点を忘れないで」という妻の一言で、一度は死も考えましたが、なんとか思い止まり、また一からやり直す気持ちになれました。
周りの人々も応援してくれました。
このピンチは私に逆転の発想を与えてくれました。「土地から家づくり」を看板に不動産免許を取り建築会社と不動産会社の二足の草鞋を履いての経営で、これがうまくいったのです。人生は思うとおりには進まないものですが、忍耐と努力があれば必ず運勢はめぐってくるものだと感じました。
そんな私の紆余曲折の人生経験が認められたのか、四十歳も過ぎたころから青少年指導の相談を受けるようになってきました。不登校の生徒、高校中退の子供、ニートの青年たちへの生活指導や相談です。もし私は中学から高校、そして大学へと順調な道を歩んでいたとしたら、今の私は存在していなかったでしょう。若者たちの相談もできなかったでしょう。
人は生まれた環境によって、その後の人生も大きく左右されます。しかし努力によってマイナスの環境もプラスに変えることはできます。幾たび訪れる人生の岐路での選択が明暗を分けることになるのでしょう。私の歩いてきた道のりは真っ直ぐではありませんでした。思えば随分と道草をしてきたものだと思います。小さな道草を繰り返し、ここまで来るにはいくつもの岐路で立ち止まり、そのたびに進むべき方向を見定めて歩いてきました。ときには大きな岩の前で立ち止まったり、小石につまずきながらの遠回りの道草人生でしたが、悔いはありません。
■茨城新聞2019年01月14日
■朝日新聞2019年01月08日
■読売新聞2018年12月21日
■東武よみうり2018年12月17日
埼玉新聞2018年12月14日
■北鹿新聞2018年12月5日
白川さん!72歳!高校卒業おめでとうございます!
白川好光 博物館 No.03
平成28年度 生涯学習実践作文で優秀賞
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■さまざまな働き方をめぐる私の提言 「目標もって働く夢への行動力」 平成29年度参加作文 日本勤労青少年団体協議会 様 今、 7 1歳で夜学定時制高校4年生です。戦後の混乱期、秋田の田舎の炭鉱町に生まれて、小学校5年の時に家を建てる大工さんに憧れ、中学終わると同時に大工の弟子に修業の道へと入りました。その頃は勉強が大嫌いな事もあり、早く大工職人に成ろうと夢を迫いました。自分から好きで飛び込んだ職業ですから、親方に怒鳴られ、兄弟子たちから厳しい指導にも耐えるしかありませんでした。その辛抱と努力と我慢ができた事が、今になって身になっております。今の若者たちに仕事の大切さを話しても、楽観的に考えているようで真剣さが感じられません。一生懸命努力して汗を出して働く意味が分かっていない若者たちが多いようです。 自分の目的も目標もなく夢をもたない人たちは、将来困るのは自分自身なのに、危機感がありません。今少子化で一人っ子や兄弟の少なさに、競争心も闘争心も薄らいでいて、働いて早く趣味の車を買いたい、マイホームを購入して好きな人と結婚し、家庭をもって子育てしたいという将来の夢を持っていない若者たちが多いようです。働いて家を建てようという考え方よりも、親が亡くなったら一人っ子などは、家は自分が貰うという考え方では、欲望も無い夢もない。お金の価値観は良くわかっている。しかし親の裕福さに甘えている若者たちは、結婚時期も忘れて好きな事をして楽に遊んで暮らしたいと考えているようですが、間違いの甘さだと思います。学校を卒業して就活できても、真剣に自分の未来の構想を建てる計画がほしいものです。 働く意欲がない、スマホでゲームばかりして、いつまでも学生生活から抜け出せないような、人を甘く見ている生徒たちが多い事に気が付かされます。私も4 5年間7 0歳まで会社経営をしてきましたが、田舎での修業後に2 0歳で東京に上京、親方の家から朝の6時に仕事場に入り、夜の9時頃まで残業して苦労はしましたが、それが、その後の人生で大変な勉強になりました。その経験を生かして2 5歳に独立できたのも、苦しい修業と苦労の難関を乗り越えた事の自信が大きかったと思います。社会貢献活動として3 0代から青少年の指導を続け、不登校、引きこもり、落ちこぼれの人々を助けながら、働く基本と一般常識を教え込んで社会に復帰させてきました。非常勤講師として学校に足を運び指導したり、高校で勉強しながら生徒たちの姿勢から色んな事を学び、それを講演活動にも生かしています。修業時代は、真冬でも冷たい水で鉋の刃を研ぎ、ひび割れの指から血が出た事や毎日の重労働で腰痛になっても風邪ひいても、耐えられた事で、忍耐力が身につきました。社会に出て対人関係を築いてきた事が会社経営に大いに役立ってきました。 将来の目的も目標もなく夢も作れない今の高校生や大学生が心配になります。世の中を甘く見たら将来泣くのは自分です。後悔するような人生を送ってはいけません。仕事の満足感は自分自身が決める事です。そうすればもし失敗しても後悔せず、納得もいき次への挑戦に生かせるはずです。人生の成功者たちの皆さんに一致しているのは、行動力があること、そして努力家ということです。忍耐強さ、判断と決断の速さが皆さん一致しておりますね。 そして最も大切な事は、早くから目的と目標と夢を作る事の上手さと人間性、性格の良さ、そして人脈を作れる魅力の持ち主だという事。 社員や周りの関係者、家族や知人にも愛情と思いやり気配りの人間造りに挨拶が最も大切です。それが成功にも繋がっていく事は立証されております。 働いてお金を得る事の大切さは生活の基本です。今の世の中で我侭言って会社に入社しても上司から怒られた、先輩の指導が厳しいなど不満を言う前に耐える事、我慢する事を知っていなくては長くは勤まらないでしょう。直ぐ辞めてアルバイトやフリーターをすればいいというものではありません。将来のマイホームも結婚も家庭生活の子育ても実現するためには働く事です。働かずして成功はありません。 |
埼玉新聞 2017年 10月 4日 ※画像をクリックすると拡大できます。
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秋田さきがけ新聞 2017年 1月22日 ※画像をクリックすると拡大できます。
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埼玉新聞 2017年 2月20日 ※画像をクリックすると拡大できます。
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東武よみうり 2016年12月5日
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秋北新聞 2016年11月21日
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朝日新聞全国版 2016年08月16日
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◆埼玉新聞 2015.06.05 |
◆さいたまグラフ 2015.06 |
◆さいたまグラフ 2015.05 |
◆さいたまグラフ 2015.04 |
◆東武朝日2015.01.23 |
◆埼玉グラフ JAN.2015.1 |
◆埼玉新聞2015.01.16 |
◆東武朝日2014.12.12 |
◆東武よみうり 2013.02.04 |
◆東武よみうり 2007.10 |
◆埼玉新聞 2012.03.14 | ◆東武よみうり 2012.05.14 |
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白川さん、秋田県内高校に著書寄贈 2012.3.23 | |
【2012.03.23 白川好光さんのブログより】 昨日朝出発 秋田県庁議会中の合間に県教育長さんとの対面にて、 「人生の参考書」寄贈贈呈式が、県関係者と無事終了した。 県内全部の高校と大学に100冊を贈った。 高校生、大学生の悩み迷い苦しみの時にでも、お役に立ってくだされば幸いとの思いで、そして秋田県は学力は子供時代には全国トップの県であるが大人の社会生活での自殺者は全国トップを走る 馬鹿真面目正直者で内向的が目立つ秋田県生まれの環境が家庭が作り出す人間性は良くも悪くも何とも言えない「今回私の恩師の子供が県の県教育委員会を退職後、現在秋田大学北秋田市校の校長先生の取り計らいに感謝でも有る。人間何歳に成っても恩師の恩は忘れない あれから50年過ぎても尊敬の先生そして今回の息子さんにもお世話に成って夜も泊まって ご馳走に成ってしまった。 今日の朝の電車の出発駅まで見送りに来てくださって一生懸命手を振っていた姿に「ありがとう」の涙でも有った まだふる里阿仁は雪が多く寒いのに感謝 感謝でも有る。県庁の寄贈に各新聞社が来てさっそく秋田県の魁新聞に朝刊に載った記事 見た方方が電話が入ってきた。 今日は仙台に途中下車して4年前に中学時代不登校であったが 今年から北海道の大学行くまで立ち直った若者に激励に下りて昼食食べた その子が「ありがとう ごちそうさまでした」と深々頭を下げたあの時の茶髪の子が変わった姿に嬉しかった。それは明日にでも書く事に致します。 | |
「人生の参考書」を出版・白川さん、本紙連載企画まとめる 2011.9.19 | |
三郷市早稲田在住の建設会社役員、白川好光さん(65)が5冊目の自著「人生の参考書」を出版した。5日に15冊を市に寄贈、受け取った木津雅晟市長は「子どもたちはじめ幅広い年齢の方に読んでもらえるよう図書館や中学校図書室に配本します。読んだ人の人生や生き方が変わればいいですね」と話していた。 白川さんは秋田県北秋田市阿仁出身。先天性の障害を抱え、3人の父親、4人の母親に育てられるという複雑な家庭環境に育ちながら、16歳で大工の道に入り、24歳で独立。 | |
数奇な人生は、NHKラジオ深夜便こころの時代「私の小さな天職」「4人の母への賛歌」として取り上げられ大きな反響を呼んだ。これまで歩んだ人生をもとに執筆した自叙伝や童話なども出版、市や故郷に寄贈している。本業のかたわら子育てや道徳、生き方などをテーマに講演や小中学校の非常勤講師としても活動している。 今回の本は、今年3月まで東武よみうりに同名のタイトルで連載したコラム14回分を軸に親子の絆、夫婦円満のひけつ、老後の幸福、命の大切さ、人生の心構えなど、白川さんが実践と経験を踏まえてアドバイスとして執筆した「人生のヒント」70講話をまとめた。 白川さんは「コラムを連載中に読者からの反響が大きく、私のところに直接、さまざまな悩みについて相談が寄せられ、離婚や自殺を思いとどまった方もいた。私が経験、実践してきたことを、皆さんが抱えている悩みを解決する糸口になればという思いで、本にすることにした」と出版した動機を話している。 「人生の参考書」は文芸社刊、四六版244?n。定価1470円(税込み)全国の書店やネットショップ・アマゾンなどで発売中。 ※こちらのサイトから転載させていただきました。 http://www.tobuyomiuri.co.jp/newnews/110919sirakawa.4.html |
白川好光さん、5作目の著書「人生の参考書」20冊を市へ寄贈 |
白川好光さん、5作目の著書「人生の参考書」20冊を市へ寄贈 (2011.8.12) |
☆★☆白川好光さんのブログ ~人生よりどころ「生きてこそ今」~
白川好光 博物館 No.02
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苦難も前向きに受け入れられる様になった今でも、母と10歳で死別したことへの不幸としての苦しい思いをずっと背負って生きて来ました。母のことを思うと悲しい気持ちでいっぱいになって何十年経っても「母」=「悲しみ」でした。しかし白川好光さんとの出会いで、「俺はお母さんと10歳まで暮らせていたんだ。幸せにいっぱい包まれていたんだ。」ということに初めて気づきました。そして「お母さん本当にありがとう。俺を生んでくれて、俺を育ててくれて本当にありがとう」と。母と別れて37年目にして心から思えました。母がどういう気持ちで私を産んだのだろう。どういう気持ちで育ててくれていたんだろう…と。自分のことばかりでなく、母の気持ちもわかってあげようと思える様になりました。私が辛いときや、血友病で出血が止まらなく輸血をして不安なとき…。頭部の手術前の恐怖や手術後なかなか出血が止まらなかったとき…。そんな不安のときも母が支えてくれていた「お母さんが見守ってくれているから大丈夫だろう。」って。亡くなって37年が過ぎたけどいつの時も母は私と一緒に生き来た。そしてこれからも一緒なんだということに白川さんとの出会いが私に気づかせてくれました。そして母との思いだけでなく人生のあらゆることへ不平不満を持つことが白川さんの前ではとても恥ずかしくなりました。 「白川さんが教えてくれた分福」 勝俣工一 「幸せはひとりじめしちゃダメ!」 幸せのエネルギーって人間ひとりが自分の中に溜めておくことが出来る容量って 限りがあるのでしょうね。幸せをひとりじめして幸せの許容範囲を超えてしまうと何かがくずれて行ってしまうのでしょうか。。 だから、いま幸せならだれかに幸せを分けさせていただくことが大切な生き方なのでしょうね。自分の幸せって自分だけのものじゃないのですね。 人生苦しい時でも体が健康な人なら。道で転んだ人を助けることも出来る。 体が弱くても心は健康であれば心が病んでいる人に希望を抱かせてあげることも出来る。 みんな、みんな誰かのために何かしら出来るのですね。 白川好光さんが「勝俣さん。わたしが思うには人間として分福(ぶんぷく)が 最も大切なことなんじゃないかな。」って言ってました。 白川好光さんの波乱に満ちた人生の中から感じた生き方なのでしょうね。 何か真理がこの言葉の中にあるような気がしました。 とてもとても大切なものが。。 |
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白川好光 博物館 No.01